heroのお腹ゆるゆるブログ

潰瘍性大腸炎を持病に持つheroが日々感じている事を書きます。

柔軟な思考という名の隠れ蓑にすがっていた自分

どうもheroです。

 

全てを柔軟にとらえる。私にはそう考える時期がありました。
世の中の当たり前、自分の中での当たり前、それを一旦崩すために必要な作業だと思っていました。

 

Freedom

 

なぜそうなったと言いますと、私の場合は持病が原因でした。
まさか自分がこんな病気になるとは。自分なりに人よりも努力した結果が病気です。
この時は起きている事実と向き合うのが辛かった。 こんな事になるくらいなら初めから、
努力などせずのうのうと平凡な人生の方が良かったのではないかと思った。
考えれば考えるほど、持病には悪影響なのは分かっているが、食事制限や運動制限が拍車をかけた。人と同じ事ができない
という事実はさらに気持ちを暗くさせました。普段食べたいと思わないアイスやお菓子が、食べられないとなると
無償に食べたくなる。 友人からの運動の誘いを受けても出来ない。
そしてなにより、私がこれからいくら頑張ったとしても持病は根治しない

こんな状況になったら、今までの生き方を否定せざるおえませんでした。
全てを否定するというのもそれは本当に精神的負担が大きく、また今までの考え方と、
そこから離脱しようとする心が葛藤し、よくある天使と悪魔のように物事1つとっても
感情と思考が全く分離している状態となる。

 

全く一貫性がない状態でした。

それは当時の私にとって、自分を変える為に必要ではあったが、
私の両親からしたら不安でしかなかったと思います。 
自分も辛いけど、私の状態をみて両親や親戚がまた辛そうになるのもきつい。

 

柔軟な思考=なんでもOKだった

 

今までの生き方と持病の悪化はどう考えても関連性がある。だから、自分の物事の捉え方を変えない限り、
持病は緩和し無い事は明白であった。 もちろん薬や制限事項の厳守も大事だが、根本はストレスを抱えてしまう、自分自身の性格にある。 なので私自身がこれから先明るい生き方が出来る様にする為には、自分の思考の枠を外す必要がありました。
例えば、計画→実行タイプだった私は、まず実行してみる事をしてみたり、人からのアドバイスを吟味せずまずはそのまま助言通りにやってみたり。

とにかく、自分の今までしてこなかった経験を行い、やってみてどう感じるか、想像していた不安や恐怖と実行した後での
違いを比較しました。当時は、とにかく変わりたい一心で、やりながらも「自分何をやっているんだろう」とか、「やっても意味ない」という感情も同時に沸いていて、でも立ち止まって考える事は出来るだけ避けたかった。
それは、考え込む性格というのもあるが、何より考え込んでも答えは出ないという答えに行き着いたから。
詳しくは下の記事を御覧になって下さい。(現在作成中です。すみません。。。)

 

ある時気づいたこと

私自身が何事も柔軟性を持った考えで活動していると、おのずと今まで関わらなかった人と知り合いになれた。昔の自分でしたら苦手なタイプだった人もです。とにかく先入観も持たずまずは全てを受け止める勢いで人付き合いをしてました。 それはそれで良かった事だと思います。その一方で、言いようも無い不安がありました。自分のありたい姿の喪失です。 私の言動の変化によって知り合った人は例えば、

  • 結婚して仕事を辞めた人(自営に転職)
  • 超大手から零銭企業に転職した人
  • ついこの前まで、仕事辞めて海外に一年以上旅していた人
  • ナンパばかりしている人
  • バイトをしながら、夜な夜なバイク仲間を引き連れて走っている人(暴走族やそういった集団ではありませんw)
  • 派遣で働きながら企業セミナーに行っている人
  • 同じ持病を持つ人
  • ボランティア活動に精を出す人
  • ポジティブ過ぎる人
  • ネガティブ過ぎる人

他にも沢山の方と出会いました。 私は転職もせず、同じ会社の同じ部署で働き、社会人になってからコミュニティを拡げるような事も一切せず生活していました。なので私にとってはこういった方々は表現が適当かは分かりませんが破天荒で何を考えているか分からない人でした。 ですが、実際お話して感じた事は、彼らの言葉には意思がありました。人との体裁を整える為の会話ではなく、自分はこう考えるというのがはっきりしていた。彼らの発言自体の正しさは置いておきます。

 

何かそこに自分に今ない物を感じました。そうです。私は、まだ自分がどうありたいかが全く見えていない事に気づいたんです。でも、柔軟に何事もまずは受け入れるという思考は、私にこのような初体験尽くしのイベントを運んでくれる一方で、私自身がどうありたいか、現実でどう生きたいか(自分のあり方、自分の哲学を持って生きるということ)を保留にしていた(させてくれた)ことに気づいた。

 

すみません長くなりました。

ではでは。

親切には責任が伴う

どうもheroです。


親切心ってとても素晴らしい事だと思います。
ですが、注意しなければならないことがあるかなと感じた経験があります。

今回は親切をテーマに書いてみました。

 

Help

 

それは、タイトルにもあるとおり責任が伴うということ。
何かを頼まれた時に、してあげたいと思うことは悪い事ではないと思います。
ですが、相手の期待に応えられない事もあります。
初めは親切心で行ったつもりが、なぜ私がこんなことやらなきゃとか、なぜそんなこと言われるの?
などと、不満がたまった経験誰しもあると思います。
私は、結構頼まれるとやってあげたくなる性格で、このようなジレンマを抱えた経験があります。
そんな時、どうしたら自分の心を安定させられるか、それは自分がやりたいからやった思うこと。これに尽きると思います。逆にやりたくないならば、やらない決断も必要ですね。 

 

そもそも何で助けたい?

私の場合ですが、以前書いた通り、承認欲求が高いのが原因かと分析してます。

 

hero81186.hateblo.jp

 

なので、親切で行う行為の裏側には自分の満たしたい欲求があると思います。

それが良いか悪いかはどうでも良くて、ただ知っている事が大事だと思っています。 でないと、自分の事を優しくて慈悲深い性格なんて思いあがりに繋がる事もあるかと思うので。

生き方(考え方)次第

ここからは私の考えなので人それぞれと言う事にしていただきたいのですが、
もし、やってあげるとか、損得で頼み事を引き受けたならば必ずと言っていいほど、不平不満が発生します。
もちろん損得で物事を考える事はとても重要だと思います。
ですが、損得の前に自分の中で筋が通っているかが大事なのかと思います。
一度やるって言った事、頼まれて自分が承諾したならば、最後まで不満を言わずやる。
もちろん不満もあるだろうが、それは自分がやるって決めた事だからしょうがない。

そんな風に出来た方がかっこいいと思うんです。

もし、時間的に難しい、もしくは経験の無い事だから見積もりし辛い等、判断が難しい場合、それをそのまま相手に言えばいいと私は思う。 つまり、私が言いたいのは、相手の出方次第で自分の行動を決定すべきではないということである。結果的に相手の出方次第の場合もあるが、自分の意思がまずちゃんとあるという事が大事なのだと思います。


私自身それを実行出来ているかと言われれば、はっきりyesと言えませんが、この気持ちは常に忘れずに行動しています。

Don’t think. FEEL!

どうもhiroです。

 

朝起きて、何か今日はいつもと違うなって日ありませんか?

Army Photography Contest - 2007 - FMWRC - Arts and Crafts - Eye of the Holder

 

 

今日の話です。
朝電車がまず止まり、時間通り進まず、何か今日やばいなって予感がしたんですw

そしたら、今日教官にぶち切れされました。理由は、携帯を見たからw
少しLineの通知があって、確認したんです。そしたら、凄い剣幕で怒鳴り散らされました。

その教官過去にも、そういった件で嫌な事があったみたいで、見事地雷を踏んだということですね。
それまで、割とフランクに話していたのに、急に一変しました。
確かに講義中に携帯を操作するのは、失礼ですし、学ぶ意欲は見えないですよね。
でも、一瞬確認しただけですやん。なんてリアルでは言えないことを吐いてみたりw

 

今日はまた一人新人さんの初日講義だったんですが、その方には大変申し訳ない思いをさせてしまいましたね。教官には平謝りでしたが、この新人の方には、講義後しっかり謝りましたw

 

さてさて今日は感覚という話です。

私達は、日々色々な事に追われています。
学生の方なら、朝起きて身支度をして学校に行き、勉強や部活動に励む。
部活をされていない方は、一人の時間を満喫するか、友人と遊びに行ったり。
社会人の場合ですと、朝の通勤ラッシュでもみくちゃにされるところから始まりますねw

最近思うのですが、私自身何かを感じているのだろうか。ということ。
それは、満員電車にイライラした、とか仕事を無事終えた、終わらないとか、そういった事ではなく、
ただ感じること。 言うなれば、今日は昨日より風が強いとか、肌寒いとか、空気が汚いとか綺麗など。五感で自然を感じているかという事です。

心の余裕


つまり、心の余裕があるかどうか。 仕事や勉強に追われ、毎日の少しの変化に気づかない。
季節の移り変わりにも気づかず、また気づいたときには今度は次の季節がやってくる、それでは一年はあっと言う間に感じてしまうのだろうと思います。

頭で考えるのではなく、感じること。それが大事。 そして、なんとなく「生きているんだな」と実感する。ここがもっと大事。なんとなくで良い。そんな時間があっても良いのかなと思います。

たかだか数十秒の話です。もしかしたら、その数十秒が頭の緊張をほぐしリラックスする時間になるのかもしれません。 限られた時間、場所、で制限されなかなかリラックスも難しいですが、日々の小さな事から何か自分なりのリラックス方法が見つけられたら少し気持ちが違うのでないでしょうか。

 

という話でした。 

Give and Give and take

どうもheroです。

 

今日は私が感じた学びを一つ記事にしました。

それは、「Give and Give and take」。 通常よりGiveが多いです。

 

giving

 

つまり、Giveをもっと沢山するという学びです。w

私は今までそんなにGiveした覚えも無ければTakeされた覚えもないです。w

 

最近お知り合いになった方(Aさん)の話を少しさせて頂きますと、その方はメリットデメリット関係なく、自ら率先して負担を負うんです。そして多くの方に小さなGiveから大きなGiveをしていました。 

 

もちろん私もGiveしたこと無いわけではありませんよw

ですが、Giveに値するかなんていう値踏みのような(嫌な言い方ですね)

事は脳内でしているのかなと思います。 あと単純に付き合いの深さ、時間も関係します。

 

Aさんは、そんなの目先の事なんて考えていませんでした。 正直見返りがあるとは限らないのによくそこまで出来るなと。初めは良い印象ではなかったです。

ですが、Aさんと会う機会が増え、一緒にお酒を飲む中で色々と分かったのですが、 

Aさんは「金は天下の回りもの」であり、必ず自分に返ってくると仰っていました。

 

おそらく実体験として多少あるのでしょう。 私はすぐに結果や利益を求めがちでした。ですが、Aさんを見て考え方を改めました。

まず大前提に思った事ですが、Give出来る人はかっこいいです。 

そして、常に前向きです。 

どうしても見返りは求めてしまう

そうはいっても、そんなに無差別にGiveできるだろうか。

現状Aさんのように、気を遣って、周りの事を考えながら動けるかと言われれば難しいでしょう。ですから自分に出来る範囲で行動し少しずつその可能範囲を広げていくしかないのかと思います。

そして当たり前ですが、世の中には色んな方がいますので、Give and Finishになる可能性もあります。 それはそれで仕方ないのです。

Aさんは、割とそういった点をルーズに考えているのかどうか分かりませんが、楽観的に捉えてます。それがまた余裕のある男に見えるのですよ! 自分ちっちぇーって感じてしまうんです。 もちろんですよ、人を幸せにするには自分がある程度満たされていないと出来ないという所はあると思います。 私の場合で言えば、持病が悪化しているときに、人の事を考えるメモリーは極端に少ないと感じてます。その場合無理に行動する必要はないと思います。 

 

まぁ結局何が言いたかったというと、私も人に好かれたいんですよねw

もっと友達とか増やしたいんですw

社会人になると、どうしても狭い範囲になりがちですから。

 

これからは、もっと沢山Giveできたらと思います。

 

 

 

ぶらさがり(依存)

どうもheroです。

今日は、ぶらさがりという言葉をキーワードに少しお話したいと思います。

John found the chin-up bar

 

少し小難しく言うならば「依存」ですかね。人は誰しも何かしらにぶら下がり安定を得ていると思います。

会社に所属するというのもぶら下がりです。会社に所属するという事で、
一般的な行動をとっているという精神的安定と、それなりに将来が担保されるという安心が得られる。
今後それが正しいかは別として。

人は何かを失って初めてぶら下がっている事に気づきますよね。
沢山喧嘩ばかりしていたのに、いなくなると精神的な不安をもたらすこともあります。

ぶら下がる事は悪いことではないが、ぶら下がり方はあるのかもしれない。
もたれかかるようにぶら下がっていたら、いわば頼る事ばかりでは、その人は安心を得られても成長はしないだろう。

そんな事を感じる日が最近ありました。
私は、ぶら下がっていたほうです。
「この人がいるから、何とかなるだろうとか」、「困ったらこの人に相談しよう」なんて思っていたんですよね。

ですが、最近ぶら下がっていた人が私の前から抜ける事となりそうなのです。
それを少しでも予期し、危機感を持って行動していたら、同じ作業でも全然感覚は変わっていたと思います。

甘えていたんだなと実感した瞬間でした。
これは、仕事に限らず全てにおいていえます。
当たり前の存在が当たり前でなくなる瞬間は必ず来ます。
それに、目を閉じて待っていたからこうなったのです。


まだまだ甘いですな。

顔晴

どうもheroです。

 

さてさて、今回は私が最近力を貰えた名言を共有できたらなと記事にしています。

それは、ついこの前日本が金4銀5銅4という華々しい結果で幕を終えたピョンチャンオリンピックでの出来事。高木 菜那選手の今までのヒストリーで語られた「顔晴」です。

 

高木選手は、中学までは順調に成績を伸ばしてたそうですが、高校になって、壁にぶつかり、スケートの楽しさを忘れてしまうくらい、頑張れという言葉に疲れたそうです。

そんな時、コーチからかけられた言葉が「顔晴」、本当の頑張れは、顔が晴れること。辛くても笑顔を忘れてはいけない。というものでした。

私はこの言葉(ニュース)を聞いて、とても感銘を受けました。

 

私の場合、筋トレをして身体を鍛えたいと思い、スポーツジムに入会するものの、結局お腹を下してしまうんです。
何か資格を取りたいと思っても、その日の体調で勉強どころではないこともあります。排便の繰り返しで軽い脱水も起きるし、
何よりやりたいこと、やろうと思った事が全然うまくできない事があります。そんな時、私の心は負の感情に流されて、自分の境遇を
呪うようなことがある。そうなると、何をやってもできないと感じるし、現実に出来ないことが多い。

そうなると、自分ではない誰かのせいにしようとしたり、ストレス反応で暴飲暴食に走ることも。

人は病気になると、心まで弱くなってしまうとつくづく思います。

 

だからこそ、今の自分を受容し、そして前を向いて歩く強さが必要になるのかなと思います。

 

病気であること、それによって出来づらいことがあるという事、食べない方が良いものがあるという事、定期的に検査を受ける事、薬を服用し続ける事、挙げればもっともっとあって、一つ一つに対してネガティブな感情が沸いてしまう事とも言える、ですがそれらは全て自分のあるがまま(ネガティブな感情が沸くことも含めて)として今は少し受け止められていると感じてます。まだまだですがね。。。

 

そして、辛い事なんてのは誰にだってあるもの。別に私が特別辛いわけではない。

好きなことをやっている人でさえ逃げ出したいくらい辛い事もある。

 

だから、前は向いておこう。顔は晴れ晴れとしていこう。これは、決意なんだと思う。

辛くても笑顔でいること。その強さが、良い結果に繋がると信じてます!

最近は、ちょくちょく手術入院もあったりで、客観的には辛い状況なのかも知れないですが、気持ちが酷く落ち込むと言う事はないですね。自分なりにセルフコントロールできているのかもしれません。

 

書きながら少し自分の成長を感じられた記事となりましたw

 

 

 

 

他人を傷つけ、自分が傷つく

heroです。

 

ちょっとタイムリーではないですが、不倫問題(○ッキー)をとりあげるニュースを受けて思う事。
いやこのニュースに限らず常々思うことがあります。
とにかく批判がひどい。ひどすぎる。
何がひどいかという事とそれに対する私の考えは最後に伝えさせてもらいたいのですが、まず前提として、

私は、一方が悪いと判断はしませんでした。
というより、第三者がそんなことまず言う資格というか、権利なんてないと思っています。
女性の方が謹慎状態で、男性の方は活動を続けて不平等とか関係ないと思ってます。
お互い自分の意志で、交際し、それが不倫だった。公になって女性は謝罪した。
それは、事務所の意向かもしれないけど、問題はそんなところではないと思う。
芸能人だから、一人の大人だからと言うつもりも毛頭ない。
おそらく、今回の件で二人ともそれなりの芸能活動に支障をきたし、また関係者には騒動に対する謝罪はしたと思う。それでも、今まで通りには戻らないし、戻す為には今まで以上の努力が必要になるのは目に見えている。
因果応報であるといえばそれまでだが、その戻す作業の時点で償いというか、報いは十分に受けるのです。
だから、私からは、あえてどっちが悪いとか、そんなことを言わなくとも彼らは十分に苦しみ、また今後も大変な道を通らないといけないと思うから、何もいう必要なんてないと思ってます。

ですが、世間はネットで匿名性があることをいい事に、結構ひどい事いいますよね。

何度もいいますが、やった事は悪い事、それは間違いないと思うですが、他人が必要以上に誹謗中傷するのは、どういう意図なんだろうと常々思います。
別にネットで叩かなくても、悪い事したらそれなりの罰は受けるんです。
つまり、やってることは、いじめに近いと思ってしまいます。
ネットで叩くことを日常化してしまった人は、何を思って叩いているのだろうか。。。
私の小さな脳みそで考えられることとして、単純にストレス解消なのかなっと思ってしまう。
きっと仕事とかうまくいかなかったり、色々うまくいかないとどこかではけ口が必要になってきて、ネットならばれずに好き放題言えるから。
そんな感じなんでしょうかね。。。 もちろん人の数だけ理由はあると思うのですが。

そんな事いう私も結構批判人間でした。
他人に対しても自分に対しても批判していました。

でも、今は少しだけ、本当に少しだけ緩和されました。
これは私の経験則でしかありませんので、意味不明な事言ってると思われるかもしれませんが、
タイトル通り他人を傷つけ、自分が傷つく事を知ったのが私の考えを変えるきっかけになりました。

昔というか一年前までは、人の生き方、考え方に対して、あなたは間違っていると関節的に人に言っていました。

 

一つ例を挙げますと、私の友人が福島のボランティアに行った事を話した時です。
当時の私は、軽々しくボランティアになんかいったら、逆に被災者の人にとって良くないと思ってました。
だって、ボランティアに行く人は被災していないし、ボランティアをせいぜい1週間もしたら、もとの自分の住みやすい街に戻るんです。
もし私が被災者だとしたら、なんだお前らって気持ちになりそうな気がしたから。

(因みに友人にこれに近いことも言ってしまいました。。。)


何より、一番嫌だなと思ったのが、行ったら被害の甚大さに恐怖を感じ、日常の大切さを実感すると思う事。
つまり、私の中では、ボランティアに行く=日々の大切さを実感するため。つまり自分の為なのではないかと思っていました。
これは、福島に限らず言えますが、例えばインドに行って、貧しい人をみて、今を大切にしようって思う感じ。
なんというか、当たり前な感情だと思うのですが、やってることは結局人の不幸を見て、自分を改めてるんだなって思うと、すごく嫌な人間に見えてくる。

当時の私は福島にボランティアに行くならば、本当に純粋に利害関係なく行くべきと思ってました。
それは、例えば、就職のネタになるとか、そういう物理的な話から、心理的な、つまり、今の何不自由ない生活を幸せと思うために、とか、そういった事もなく、行くべきと思ってました。
でも、今はそう思いません。いや、例え少し思ったとしても、それも肯定します。

理由はどうであれ、私の友人は現地に行ってボランティアをした。 私は何もせず被災者の気持ちがどうとか(会ったこともないのに)勝手に思い込んだ。

私は何もしていないんですよね。批判してさも自分は正しいみたいな事を言いたかっただけです。本当は、放射能とかが怖くて端から見てることしかできなかった。

どっちが被災者の為になったかなんて言うまでもないです。

 

自分のとても狭い考えで生きている内は気づけなかったんです。
ですが、仕事でどうしようもない事があったり、病気で苦しんだり、そんなうちに、今の自分(の考え)では、生きていけない事に気づいたのです。

特に病気が発症したとき、ただただ話を聞いてくれた友人や家族には本当に救われました。


結局人を否定したり、傷つける事は、自分に返ってくるんです。
それは、神様が見ているとかそういう話ではなく、人を否定すると、否定した分だけ自分の枷になります。 人を否定する=そういう人(人格)はダメ=自分はそういう人になってはいけないとなるわけです。実際否定した人の背景なんて全然みていなかったりするのに、結果だけをみて否定しているんですよね。そしてなんの根拠もない理屈で自分が正しいと思い込んでしまう。 でも蓋を開けてみると、自分の精神的未熟さを理屈っぽく述べているだけだった。


何をやるにも、こうでなきゃいけない、こうあるべき、こうなったら失敗等と思ってしまうのは、向上心とかまじめだからとかそんなものではない。そうしないと、自分の精神的安定が保てない(未熟な精神)だけだと気づきました。そして、
それに疲れてしまった私は、自分に優しくなるために、人の考え方や意見をとりあえず肯定する!!!事にしたのです。(全てではなく、取捨選択はしますが)

 

人の批判をする事で、自分の思考が固執して、実は実生活の色々な場面で、

支障をきたしているのではないかとheroは思うわけです。